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目黒区(目黒区HPその他参考)
江戸の終わりまでは、目黒のほとんどが農村が広がっていました。しかし、江戸に近い下目黒村と中目黒村には、茶店・料理屋や植木・荒物などを商う店が軒を連ねる一角があった。その中で、庶民の参詣や憩いの場として栄えた目黒不動の門前町である。「江戸自慢」には、町家の内儀風の婦人を中心に、お不動様のにぎわいがいきいきと描かれている。
徳川家は、開幕以来しばしば鍛練と娯楽を兼ねて鷹狩りを催した。目黒の鷹場として最も利用されたのは、駒場野である。いま東京大学教養学部がある辺りは、当時人の背丈ほどもある笹が茂り、松林も残る広大な原野で、ウズラ・キジ・ウサギなどの宝庫だったとか。「名所図絵」にある精悍な鷹と駒場野の風景が、鷹狩りの情景を再現してくれる。
目黒区内の町丁としての目黒は、区をほぼ東西に横断する目黒通りの北側沿いに、東端は品川区上大崎に接する目黒一丁目より、西方向には目黒川を横切り更に山手通りを横切って、西端は中町に接する目黒四丁目まで、1km 強に亘って帯状に続く地域である。北で三田、東で品川区上大崎、南で下目黒、西で中町、北西で中目黒と隣接する。
目黒川が北西から南東に向かって流れており、川をはさんで23区内としては深い谷が刻まれている。
また、JR目黒駅を根拠とした汎称地名としても使われ、JR目黒駅が品川区上大崎にあるため、この一帯も含めて目黒地域と称することもある。
地価[編集]
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、目黒2-1-18の地点で80万円/m2となっている[2]。
歴史[編集]
江戸の守護のために安置された江戸五色不動の一つ、目黒不動(泰叡山瀧泉寺、目黒区下目黒)は慈覚大師円仁の創建と伝える古刹である。目黒不動は五色不動の中で最も著名であり、21世紀でも庶民の信仰を集めている。
1745年(延享二年)当時は、江戸町奉行が管轄する町屋の南西の端に位置していた。拡大する江戸の範囲を絵図に引いた朱色の線(朱引)の内側であると1818年(文政元年)に定めたとき、目黒は朱引の外側にあった。ただし、町奉行の支配地域である黒線(墨引)の内側には入っていた。本来であれば江戸の領域外となるはずだったが、目黒不動尊のために唯一の例外として御府内とされた。江戸末期に至るまで武家地としてはもとより町人町としてもほとんど機能しておらず、目黒不動尊の寺町として栄えていた。筍の名産地だった。
地名の由来[編集]
旧・荏原郡中目黒村と下目黒村にまたがる地域である。そのため中目黒や下目黒とするわけにもいかず、結局は目黒駅に近いことから目黒と名づけられた。中目黒村、下目黒村や目黒町の中心地域ではなかった。目黒区役所は上目黒にある。
人口[編集]
2017年4月1日現在
• 目黒一丁目 2,298世帯 3,854人
• 目黒二丁目 1,547世帯 2,598人
• 目黒三丁目 1,618世帯 3,063人
• 目黒四丁目 1,777世帯 3,601人
合計 7,240世帯 13,116人[1]
交通[編集]
当地内に鉄道は通っていないが、東急目黒線・都営三田線・東京メトロ南北線・山手線の目黒駅が地域東側の上大崎にあり、付近の公共交通の中心となっている。駅前の商店街で毎年9月に行われる目黒のさんま祭りは東京の初秋の風物詩となっている。1996年(平成8年)に始まり、2015年(平成27年)では20回目を迎えることになる。
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目黒の鉄道 1
目黒を背骨のように貫く東横線、それに接続する地下鉄日比谷線、南に目黒線・大井町線、北に田園都市線・井の頭線、東に山手線と、区内には七系統の鉄道が走っている。目黒の発展に、これら鉄道は大きな役割を果たしてきた。
品川区にある目黒駅
山手線
やまのてせん
は、わが国の重要な輸出品であった生糸輸送のために、明治18年、品川から赤羽間に品川線が敷設された。開設した駅は、品川駅・目黒駅・渋谷駅・新宿駅・目白駅・板橋駅と6駅であった。同36年、田端から池袋間に豊島線が開通し、品川線と併せて、山手(やまのて)線と呼ばれることになった。戦後、占領軍がローマ字表示を、「ヤマテ=ループ=ライン」と誤記したため、以来「山手線」
やまてせん
と呼ばれていたが、昭和46年に山手線
やまのてせん
に戻った。
目黒駅は、駅名こそ目黒だが、所在は品川区である。当初の計画では、山手線
やまのてせん
は目黒川沿いに渋谷へ続く予定で、目黒駅は文字通り区内に建設されるはずだった。これに対して地元の農民は、煙や振動が農作物に及ぼす影響を心配して、のぼりを立てねじりはち巻きのデモ行進までやって、駅を現在の権之助坂上に追い上げたという。俗にいう目黒駅追上事件である。事件の真偽は、資料がないので定かではないが、目黒駅が権之助坂上に変更されたことで、目黒が近代化への最初のきっかけを逸したことは否定できない。
人も運ぶ「ジャリ電」
明治期にできた目黒地域の鉄道
区内に初めて駅ができたのは、明治40年のこと、玉川線大橋駅がそれである。渋谷と玉川を結ぶ玉川線は、当初、開設した玉川砂利電鉄株式会社の名のとおり、多摩川で採取した砂利を運ぶ産業用輸送機関の色合いが濃かった。開通当初は、客車と砂利運搬の貨物車が、連結されて走る風景が見られた。
玉川線は、地下鉄新玉川線(現在の田園都市線)に生まれ変わったが、枝線の世田谷線は、今でも「玉電」の愛称で親しまれている。
震災直後開通した目蒲線
目蒲線(現在の目黒線)は、後に開通する東横線に次いで、目黒地域の発展に大いにかかわってきた。
大正7年、実業界の実力者渋沢栄一子爵が中心となって設立した田園都市株式会社は、現在の田園調布、大岡山、洗足地区に広大な土地を買った。当時は人家もまばらな農村地帯だったが、渋沢子爵らは、この土地に近代的に整備された田園都市を建設することを夢見ていたのである。そのためには、どうしても鉄道が必要だった。目黒蒲田電鉄株式会社が、大正11年、こうして設立された。
目蒲線の開通を控えた大正12年9月1日、東京ばかりか、日本中をも揺るがす天災が起きた。関東大震災である。東京市に壊滅的な打撃を与えた大震災だが、皮肉なことに目蒲線の発展には、大きなはずみを与えたのである。
人口が集中し、すでに飽和状態であった東京市は、この震災で多くの死傷者を出した。生き残った市民は、より安全な所、より住みよい所へと、続々と郊外へ散った。
大正期にできた目黒地域の鉄道
多少の被害は受けたものの、目蒲線は同年11月無事開通した。沿線には、折しも被災者が一時の住まいを求めて集まり、そのまま住みつく人も多かった。原町、月光町、大岡山、洗足の人口は、この時期、一挙に増えた。目蒲電鉄は、順調に経営成績を伸ばし、次々に周辺の電鉄会社を吸収合併して、現在の東京急行電鉄株式会社の母体となった。
東横線、田園を行く
明治、大正期に開通した鉄道は、いずれも区の端を通るものであり、その恩恵を受ける人びとも限られていた。目黒の真ん中を通る鉄道を待つ声が出るのは、当然の成り行きであった。碑衾
ひぶすま
村、目黒村を通る路線の免許は、すでに大正10年におりていたのである。しかし、資金難と土地買収の壁にぶつかって、工事はなかなか進展しなかった。大正13年に設立された東京横浜電鉄株式会社の手で東横線が開通するまで、あと6年の歳月を待たなければならなかった。
当時の目黒地域は、まだ田畑や竹林の多い農村地帯であったが、都市化の波は、ここにも確実に押し寄せていた。目黒が住宅地として脚光を浴びた震災後は、宅地の値上がりが激しく、農家は賃貸料で暮らせるほどだった。そんななかで、都市化の波に呼応する動きがあった。地主を中心に、十余りの耕地整理組合が組織され、耕地整理事業が進められたのである。これに助けられた形で、目黒を縦断する東横線が開通したのは、昭和2年のことであった。
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の文学散歩 1
すずめのおやど緑地公園
本を読み進むうちに、ゆかりの地名や人名に出くわすと、格別の興味がわく。私たちのまち目黒も、素材として、また物語の背景として、幾つかの近代文学に登場している。それらの作品は、明治・大正・昭和と、時代の流れに沿って目黒の移り変わりを知る貴重な資料でもある。目黒が登場する文学を拾ってみることにしよう。
武蔵野を歩く
緩やかにうねる丘陵に、雑木林があり、野や畑が広がり、農家が点在する武蔵野をこよなく愛した国木田独歩
くにきだどっぽ
。明治31年の作品「武蔵野」には、心ひかれる武蔵野の水流のひとつとして、「目黒邊を流れて品海
ひんかい
に入る者」と、目黒川についての記述がある。当時、川は人びとの生活と密接に結び付いていた。
「稲が刈り取られて林の影が倒さに田面に映る頃ろとなると、大根畑の盛で、大根がそろそろ抜かれて、彼方此處水溜又は小さな流の潯で洗はれる様になると、野は麥の新芽で青々となつて來る。」
農民が流れのほとりで大根の土を洗う風景は、昭和の初めまで、よく見かけられた。
目黒不動のにぎわい
農村地帯であった目黒で、唯一にぎわっていたのは、目黒不動辺りであった。江戸時代の「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」にも紹介されているが、明治になっても、参拝する人は絶えなかったようだ。広津柳浪
ひろつりゅうろう
の明治33年の作品「目黒小町」は、次のような書き出しで始まっている。
不動前にあった「竹の子飯」(昭和初期頃)
「名物の筍飯は軒の幟を書替へられた。今は目黒も牡丹に客を招く時節となった。橋和屋を除けば、大黒屋内田屋さては角伊勢など、何れも妙齢の女の眉目美しきを粧はせて、節々の名物よりも此花に客を惹かうとするのである。」
同じく目黒不動に遊んだ正岡子規
まさおかしき
は、明治35年の作品「病床(牀)六尺」に、その思い出を書いている。子規は、同年9月19日に永眠した。
新名所、ビール工場
のんびりした農村も、少しずつではあるが変化していった。政府が強力に押し進めていた殖産興業政策により、目黒川流域にも、工場が建つようになった。明治20年、三田に創立された日本麦酒醸造会社は、明治39年に札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社と合併して、大日本麦酒株式会社(現サッポロビール株式会社)となった。
田山花袋
たやまかたい
は明治43年の作品「新撰名勝地誌(東海道東部)」で、目黒を「東京市南郊の好散策地」として紹介し、大日本麦酒会社にも触れている。
「目黒村大字三田にあり。麥酒醸造の工場を有し、社内にては客の需
もと
めに應じ、庭園にて生麥酒を賣る。山手線は惠比壽停車場に置けり。」
失われゆく自然
同じく花袋
かたい
の作でも、大正7年の「一日の行楽」には、次のような表現がある。
「目黒は今は開けた。すつかり郊外の町になつて了つた。昔は不動堂も甘藷先生の墓も、千代ケ崎の衣懸松も皆な田圃の中にあつて、秋は林に時雨が降つて通り、黄田遠く十里の外に連るといふ風であつたが、今では、さうしたラスチックな趣はもう何處にも見出すことが出來なくなつた。」
花袋
かたい
の目に映った変化は、明治末から大正初めに、目黒に幾つかの娯楽施設が誕生したせいもあるのだろうか。
明治40年、現在の下目黒四丁目、五丁目に目黒競馬場が開設され、大正4年年から5年には、「都会人に自然を」という目的で、中目黒五丁目に自然園が開園した。どちらも、今ではバス停にその名を残すのみである。明治・大正期に書かれた作品では、ほかに正宗白鳥
まさむねはくちょう
の「落日」「泥人形」、永井荷風
ながいかふう
の「大窪だより」「日和下駄」「断腸亭日乗」などに、目黒に関する記述がある。
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒のタケノコ
「竹の秋」という言葉がある。春ともなれば、木という木、草という草が若葉を出すのに、竹は古い葉が黄ばみ始める。「竹の秋」は、だから春の季語である。
筍と竹林
昭和の初めころまで、目黒には竹林があちこちにあった。わざわざ京都へ足を運ばなくても、居ながらにして竹林を渡る風の音を楽しめたわけである。もっとも、目黒の竹林は風流のために植えられたわけではない。農家にとって竹林は、タケノコを栽培するためのものであった。タケノコは重要な農産物だったのである。
目黒式タケノコ栽培法
目黒のタケノコ栽培の最盛期は大正時代。「太く、柔らかく、おいしい」と三拍子そろった「目黒のタケノコ」は、目黒式といわれる独特の栽培法によるものであった。目黒式は、地下茎を掘り起こして、深く掘った溝に埋め直し肥料を施す方法で、目黒の土質に合っていた。
タケノコの出盛りは4月下旬から5月上旬。このころになると、タケノコ栽培農家は、一家総出で、ときには人を雇って収穫した。柔らかいタケノコは、地上に出る前に抜かなければならない。そのために、竹やぶを竹ぼうきで掃き清め、地面のひび割れを探すのである。
「わたしはかけ出していって『あったよー』といってほそい竹の枝にめじるしの赤いきれのついているのをさしていきます。おとなたちが、それを堀りおこします。(中略)『でかいぞ、これはきょうの王様だ』といって兄ちゃんがもち上げたのは高さが二尺(60センチメートル)ぐらい下の方は兄ちゃんのからだぐらいの太さがありました。」(「目黒区郷土研究」269号「小さな文庫」より)
土を掘るにはタケノコヘラ、根元を切り離すにはタケノコノミという独特の農具を使った。収穫したタケノコは、仲買人の手で、神田や駒込などの青物市場へ運ばれていった。
明治初年における孟宗筍の生産地の分布
「東京府志料」によると、明治5年の農産物収入のうち、タケノコによる収入の割合は、碑文谷村で2割弱、衾村で1割弱。上目黒村・中目黒村・下目黒村でも多くはないが採れた。手のかかるタケノコ栽培は、すべての農家で行っていたわけではないので、タケノコ栽培農家にとっては、かなりの収入だったと思われる。「タケノコが採れたら」「タケノコまで待ってくれ」という「タケノコ勘定」という言葉が戦前まであったという。
「孝竹院釈筍翁居士」
そもそも「目黒のタケノコ」の祖は、江戸鉄砲洲の海運業者、山路勝孝であるという。薩摩の藩邸より孟宗竹を幾株か分けてもらって戸越村の彼の別荘地に植えたのが初めといわれている。一説には、薩摩から直接取り寄せたともいわれる。ときに、寛政元年(1789年)(寛永5年とも)のことである。
戸越村後地
うじろじ
(現在の品川区小山一丁目、後地
うじろじ
小学校そば)に、子孫が建てた孟宗筍栽培記念碑には、次の句が刻まれている。
「櫓も楫も 弥陀にまかせて 雪見哉」(釈竹翁)
ちなみに、法名は「孝竹院釈筍翁居士」とか。
名物も今は昔
土質に合った栽培法によって、タケノコ栽培は戸越村から碑文谷村、衾村などへ広がった。「日本産物誌」(明治6年、伊藤圭介著)の武蔵部には、練馬大根や千住のネギなどと並んで、目黒のタケノコがあげられている。
「目黒のタケノコ」の名を広めるにあたって一役買ったのは、目黒不動前の料亭であった。角伊勢
かどいせ
・内田屋・大黒屋などの店が、「名物筍飯」として客を呼び、正岡子規ら多くの文人墨客も賞味した。
「目黒のタケノコ」発祥の地である品川の竹林は、大正時代にその多くが宅地化され、代わって世田谷が生産額を増やすようになった。目黒の竹林も、関東大震災を機にだんだん切り開かれていき、その後には鉄道が敷かれ、家が建った。今では、すずめのお宿緑地公園などにわずかに残るだけとなった。「目黒のタケノコ」は忘れられようとしている。
「目黒なる 筍飯も 昔かな」(高浜虚子)
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の野菜づくり
サレジオ教会から見たすずめのお宿付近(昭和20年代後半)
昭和30年代ころの目黒は、まだまだ畑があちこちにあり、野良仕事に精を出す農夫の姿が見られた。しかし、急速に進む都市化の中で農地は減少し、今日では碑文谷や緑が丘の奥で、わずかながら昔の面影をとどめているにすぎない。平成17年の調査で、目黒の農家は14軒であるが、専業農家4軒を残して、あとはすべて兼業農家である。
かつて都心への野菜の供給地として、大きな役割を果たした目黒の野菜づくりを訪ねてみよう。そこには畑や野菜洗い場で、汗水流して働いた目黒の農民の姿がある。
商品作物として栽培
目黒で商品としての野菜づくりが始まったのは、江戸時代にさかのぼる。宝暦12年(1762年)の衾村、同13年の中目黒村の「村指出銘細帳」によると、まだ農産物の一部ではあったが、大根やナス、ウリ、菜などを江戸や渋谷辺りへ出荷したことが記録されている。
目黒地域の農産物(昭和7年)
しかし商品として多く市場へ出荷されるようになったのは、明治中期以降。政府の勧農政策によって、近郊農村の野菜栽培が盛んになってからである。春のタケノコに始まり、夏はナス、マクワウリ、キュウリ、トマト、スイカ、秋は大根、ネギ、冬は葉物というように、畑を効率よく利用した輪作が行われ、出荷量は多くなっていった。特に第1次大戦末期から関東大震災、昭和の初めにかけての野菜づくりは、かつてない好況に恵まれ、活況を呈していた。
しかし、その後、住宅、工場が建ち始め、耕地面積は減り、農業としての環境が悪化したこと、交通が発達して、近県の農業が有力な競争相手として登場してきたことなどにより、目黒の野菜づくりは減少の一途をたどることになったのである。
都市化で失せた洗い場
ところで、野菜の輪作が盛んになると、農民の労働は以前に増して厳しくなり、朝は太陽の出る前に起き、夕方は手元が暗くなるまで近くの川で野菜を洗い、夜は明朝の出荷の準備に追われる過酷な日々が続いたという。特に、厳しい冬の川での野菜洗いで、手はアカギレだらけになった。それでも、都心住民の食卓へ運ぶ野菜の出荷に間に合わせるために最大の努力を払った。
区内にあった野菜洗い場
かつて田畑を潤し、野菜の洗い場でもあった区内の川は、社会的条件の急激な変化の中で大きくその様相を変え、いまでは見る影もない。現在では井戸水や水道水に頼るほかないが、緑が丘の高瀬さんは「大正の末ごろまで、呑川には洗い場が沢山ありました。しかし河川改修で使えなくなり、湧き水を利用した洗い場をつくりました」
農業の衰退とともに、人びとに忘れ去られる運命にある、野菜洗い場である